山口蓬春記念館 平成27年度 夏季特別展
山口蓬春とその時代 1940-1950
―戦中・戦後における新日本画の変遷―
2015年6月6日(土)~8月9日(日)
この展覧会は終了しました。
終戦から70周年を迎える平成27年(2015)は、戦争と美術とのかかわりについて再考する一つの契機となります。当館では、戦争という大きな転機を迎えた時代に蓬春がどのように向き合い、自らの制作に取り組んでいったのかを改めて考えてみます。
第二次大戦終盤、中央画壇を担う立場となっていた蓬春は、戦時体制の美術団体においてもその中枢にいました。昭和16年(1941)に大日本航空美術協会が結成された際に蓬春は、藤田嗣治らとともに発起人として名を連ねています。昭和17年(1942)には、陸軍省から南方に派遣され、昭和18年(1943)には日本美術報国会の幹事長に就任します。しかし、このような立場であるにもかかわらず、蓬春の戦争画は多くなく、また代表作《香港島最後の総攻撃図》(昭和17年〔1942〕)にみられるように戦闘を感じさせる場面は描かれていません。それは、蓬春自身が「その色彩の美しさを描きたかった」(『日本美術』1-7、昭和17年〔1942〕)と語り、「静的なピトレスクな絵画的効果が大きい」(『國畫』3-1、昭和18年〔1943〕)と評されるように、かつて学んだ伝統的なやまと絵の手法を戦争画という形式のなかで実践することに主眼がおかれ、戦下という特殊な状況にあっても「美」に対して真摯な姿勢を貫き、冷静な画家としての視点を失うことはなかったと捉えることもできるのです。
戦後の出発点となった《山湖》(昭和22年〔1947〕)では、「かねてから明朗で潤然とひらけた、そしてまた、相対的に近代的な色調を持つ自然界の一部を表現したい」(『新日本画の技法』昭和26年〔1951〕)と語るように戦争という暗い時代を払拭するかのような作品を生み出します。それは、戦争という時代の終焉と新しい時代の到来を自覚した蓬春が再び「新日本画の創造」へ歩み出す新たな決意と受取ることもできます。その後、実験的な画風の展開を次々とみせた蓬春は、日本画壇にモダニズムの清々しい新風を吹き込み飛躍的な新境地を打ち出すことになるのです。
本展では、戦中・戦後の昭和15-25年(1940-1950)に焦点を当て、この時期の蓬春の作品を展観しながら、生涯の指針であった「新日本画の創造」においてこの時代がもつ意味を探ります。